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大徳寺塔頭正受院の樹木葬茈林壇
大徳寺塔頭正受院の樹木葬茈林壇

正受院住職のことば

住職写真 お墓のことでお悩みの人は多いようです 私ども、正受院の檀家さんでも「子どもが女の子だけ」、「息子はいるが、遠くで暮らしていて、もう京都には帰ってこない」などなど・・。悩みは尽きません。
そして、「子どもに負担をかけたくない」と考える親御さんが多いことも、昨今よく耳にするようになりました。 一方で、「お墓にいくと、亡くなった人に会える気がする」「先祖は私たちを見守っている気がする」という思いは根強く、墓参りは伝統行事として定着しており、残される者にとってお墓は大切な存在です 正受院では、このような思いや悩みに応える新しいタイプのお墓として「樹木葬地」を作ることにしました。
正受院の樹木葬では、墓標を立てず杉苔の下に直接埋葬され遺骨は土に帰ります。
継承者の心配がない。宗旨・宗派を問わない。経済的な費用で済む。自然に帰れる。
そして、従来のお墓と同じようにお墓参りができます。 墓参ついでに四季折々の大徳寺境内を散策し、心を和ませて帰っていただければ幸いと思っております。

樹木葬とは

1999年岩手県一関市「祥雲寺」に始まった「樹木葬」は「散骨」同様、新しい葬法として注目されています。 散骨と同じ自然に還るという葬法ですが、違う点は墓地域に埋葬されるため「墓埋法」に則っており、散骨のように遺骨を砕骨する必要がないこと。 近年、墓参に便利な都市近郊においても、作られるようになり人気が高い葬法です。 樹木葬を選んだ理由としては、
  • 「自然に還ることができる。地中深く埋められた遺骨が花木の栄養となり生まれ変わる」
  • 「継承者がいなくてもいい」
  • 「費用面からも生前の通信費程度の管理費と納骨時の費用だけであり「子どもたちに負担をかけない」
といったところが人気です。
樹木葬墓苑風景

大本山大徳寺について

大徳寺は、京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。 本坊および20か寺を超える塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を有している。 沿革によると大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師 開創に始まる臨済宗大徳寺派の大本山。 正中2年(1325年)花園上皇は宗峰禅師に帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。 後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。本尊は釈迦如来。 室町時代には、享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467~77年)で当初の伽藍を焼失したが、足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から疎まれ、五山から除かれてしまったが、一休宗純をはじめとする名僧を輩出し、五山十刹と違う道を歩むことで貴族・大名・堺や京の豪商・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて再興する。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが、一休禅師に参禅して以来、大徳寺は、茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもってくる。 大徳寺三門金毛閣その後、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 江戸時代に入ると初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けたが、三代将軍家光が沢庵禅師に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。 なお、大徳寺本坊は非公開であり、塔頭も通年公開は、龍源院・大仙院・瑞ホウ院・高桐院 4カ寺で非公開のところが多い。正受院も非公開寺である。
大徳寺三門金毛閣
大徳寺境内図